本音は不安
今日は健康診断、バリウム付き。
前日からの禁食&禁水分で、朝からパフォーマンスは落ちている状態。おまけにバリウムも飲むので、今日は仕事にならないと思っていました。
そんな中、朝から電話。ここでもたびたび話題になっている、計画作成者。
先日は介護保険の適用に納得できないという話をしましたが、昨日・今日と本人から立て続けに電話。昨日は「息子に電話するな」とクレーム、そして今日は「負担はどうなるんだ?」の確認の電話。正直、ちょっとげんなりしています。もちろん対応はちゃんとしています。同僚からは「早く次に振っちゃいな」とのこと。自分も早く振りたいです。
お昼前に検診を受けてきて、昼食、しかしその時間を「裂く」ように、また電話。
今度は息子さんからの電話。電話の内容は本人からかかってきた内容と、同じ電話。ただ前日の一件があったので自分としては意外な電話であり、時間いっぱいまで対応をしました。その後、普段からお世話になっているケアマネさんに相談をして、必要なところに電話をして当面の対応を伝えることに。
「げんなり」と書いた通り、面倒な対応です。
でもここ2日対応をしていてふと感じたのは、言葉に出てくる背景にはきっと「不安」というものがあるのかなと感じています。前日に「息子に電話するな」とあった翌日に息子さんから電話が来て、その内容は今日、本人から問い合わせのあった内容とほぼ同じ。制度的ないろいろな不満をたくさん持っていることもありますが、うちが契約をした4月から今日までの間にあまりにも色々と出来事があり、実はそのことがちゃんと咀嚼できていないから更なる「怒り」という形の不満になっているんですよね。事実、「息子に電話するな」と言ってきた背景には「息子が疲弊している」という話があり、一方で息子さんから何事もなかったかのように電話があった今日の出来事。そんな話を息子さんにしたうえで、思わず感じた本音も話しました。
やっぱり、親としては子どもに迷惑をかけたくないんですよね。
どんなに障害が重くても、自分のことが理由で子どもが東奔西走するのは、耐えがたいのかもしれません。そのことが「息子に電話するな」という言葉となり、自分のこととして「これから負担はどうなるんだ」という言葉になっているのだと思います。辛辣な言葉が飛んできますが、でもそれは不安の裏返しなんですよね。10年前の自分だったらそこまで考えは及んでいないと思います。
シビアに対応することも、依存を生まないためには必要なことです。
ですが、福祉職・ソーシャルワーカーの姿としては、寄り添う姿勢なんだと思います。技術も大事ですし、技術がなければダメだと思います。しかし「当事者の思い」というものを汲まなければ、その人がいま何を必要としているのかというのを見誤ってしまう可能性もあります。サービスを確実に提供するのは当たり前のことですが、それ以上に当事者の不安な気持ちを和らげていくことも必要です。それが「怒り」という感情であっても、感情的にならずに冷静になることが必要で、それを聞きわけることで「怒り」の裏側が見えるのかもしれません。これは不安になった人に対応する電話でも同じこと。これも今日の話ですが、デイケアに参加していた利用者さんが幻聴に悩まされたけど、デイケアのスタッフには話せなかったとのこと。理由を聞くと、聞いてくれる姿勢を感じられず、話したくないとのこと。そういったことは、自分が相手だから話せるとのこと。結局これも、いかに寄り添っているかだと思います。
自分も今の仕事の在り方で思うところがありますが、みんな不安なんです。
でも自分が「できません」というのは、許されないこと。できないのであれば、ちゃんと次につなぐこと。次につながずに「できません」というのは、「やっていません」と同じこと。自分がソーシャルワーカーとしてあるべき姿と思っているのは、専門性を掲げる前に「ジェネリック・ソーシャルワーカー」であること。医療でいえば「プライマリー・ケア」を担当できる立場になること。高齢者や障害者、子ども家庭など、それぞれの専門性を持つのは「スペシフィック・ソーシャルワーカー」であると考えており、もちろん自分もその役割が求められています。しかしどのような入り口にも対応できるだけの力は必要と考えており、それが普遍的に対応できる「ジェネリック・ソーシャルワーカー」であると思います。ジェネリック・ソーシャルワーカーを名乗るのであれば、「できません」ということは許されず、一定の道筋をつけたうえでそれぞれの専門に引き渡すことであると思います。なので、今のケースは一定の道筋をつけるまでは関わりを続け、軌道に乗ったところでフェードアウトできればいいな、と思っています。
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