ハートの支援
今日は午後に、高次脳機能障害の方の相談に対応。
高次脳機能障害は別の職員が担当だけど、今日は不在。また、この方に関しては自分が初回の相談を取ったので、そのつながりからも自分が対応することに。
内容は作業部門に参加したいとのこと。
参加すること自体は別に問題ないし、通常の手続きを踏めば済むだけのこと。ただ問題なのは、参加することによってトータルとしてマイナスにならないかということ。今までの実績を見れば多分問題はないと思うけど、自分だけの判断には躊躇が。なので、担当の職員と協議して対応をすることに。
対応した中身は簡単に書いちゃったけど、相談は約1時間。
作業に関しての聞き取りと動作確認、さらに希望や現状についての話を聞くことに。自分と話をすると、今までの経緯や思いなどを話されることに。
そんな話をするのはこの方だけでなく、自分が対応する人の半分ぐらいの人は「思い」を話す人。まぁ自分が相談を担当するのは他の職員に比べたら少ない方だけど、自分が対応をすると色んな気持ちや思いを話される方が結構います。直接的に何かの解決になるわけではないけど、でもその気持ちを自分に吐き出す人が多いのかなぁ・・・ということを、最近になって感じることに。
ちょっと前に「愛のある支援」を書きました。
今回のこともそれに当たるのかもしれませんが、ソーシャルワークを展開するために「技術的」な部分が必要なのは当然のことです。それに伴って実際に何かを行ったり、あるいは状況を変えるために働きかけを行うことがあるのは言うまでもありません。時には実際にアクションとして結果を残すことも必要です。その重要性については、他の職員の姿を見て感じつつも、もっと自分にもそれだけの技量を身に着けなければ・・・と思う毎日です。
一方で「心理的支援」もソーシャルワーカーの役割の1つ。
どうやら今の自分のソーシャルワークは実務的な支援よりも心理的支援を展開していることが多いのかな・・・と感じています。「愛のある支援」なんかは実務的な部分を含みつつも、心理的に支える部分も多い。その人の持っている気持ちや思いに耳を傾け、それを受け止めて支えにしていく。今日の相談でもそんな展開になることも多く感じています。
心理的支援も、ある程度の技術は必要です。
でも技術だけでは限界もあり、その思いをいかに受け止められるかは、どれだけその思いに対して「sympathy」を持てるかではないか、と思います。あえて日本語で「共感・共鳴」と書かずに英語の「シンパシー」と表現しているのも、自分の感覚的な部分があります。実際は共感・共鳴なのですが、単純にその思いに対しての共感・共鳴があるわけではなく、そのバックグラウンドにあるものやライフヒストリーを含めて感じることが心理的支援に必要な部分ではないのか、と思います。無論、これらの考えは何らエビデンスがあるものではなく、また実証検証されたものではないので学術的ではありません。しかし私が歩んできた道と相談の積み重ねの中から言えることではないかと思い、あえて語っているわけです。
自分の仕事は、人が相手の仕事です。
機械ではありませんから、心があります。心には温度があります。無機質なものではありません。だから心の通った支援というのもソーシャルワークにおいては重要な要素なのではないか、と思います。それが自分が掲げる、ハートの支援、愛のある支援だと思います。
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