木曜日は放課後対策の日。
今日はお昼から来る子もいて、お昼の時間は自分が対応。その後他のスタッフが来たのでお任せしてしまい、自分は後方支援。
そんな中、久しぶりに自閉の子とちょっと濃密にかかわることに。
ここ最近は完全にお任せしっぱなしだったので、自分もたまには目線を下して接することに。最初の頃は色々と試し行動をしていたけど、ここ最近は自分の目を見ると観念したかのように素直になることが多く、この辺はある程度の関係ができている証に。
ただ今日は、何故かトイレにこだわっていた。
別に「ここのトイレじゃないと絶対にダメ」という強いこだわりはもっていないので、いつも用を足すところでトイレに行くように話したけど、今日は完全に話を受け入れない状態で、何が何でもこのトイレと言わんばかりの行動。そして自分の思い通りにならなければわめいてみたり・・・と、今日は関わりを喜ぶ場面とわめく場面が半々。さらに、若干自傷につながる行為も何となく見せることに。
そこに所長がやってきて、「気が済むまでやらせたら」との声。
自分なりに「何がこだわりになっているのか」を推測したうえで制してみたけど、所長の言葉でとりあえずは自分が折れて、トイレに行かせてみることに。トイレには自分ではなく別のスタッフがついていくことに。そして自分はトイレのドアの隙間から、様子を観察。すると、自分の見立てとは違うことが判明。自分の中では「それじゃないのか・・・」と、いったい何が「こだわり」の原因になっているのかを考えることに。
でも、こだわりを考えているときにふと「誰がこだわっているの?」と思うことに。
それは所長が何気なく言った「気が済むまでやらせたら」の一声。自分の中では「子どもがこだわっている」と考えていたけど、でも実はこだわっていたのは子どもではなく、自分のほうがよっぽどこだわっていたのかな・・・と思うことに。もっと言えば、なぜその「こだわり」を認めないのか、自分なりの「根拠」が弱かったことにも気づくことに。
自閉の子は色々と物事に「こだわり」を見せることが多く、それは成人になってからも残ることも。その中で自分は「このこだわりを放置すると、無秩序になる」と思ったことに関してはこだわりを認めないようにしていた。その1つに、「紙は1枚だけ」というもの。たくさんメモ用紙や使わない紙があるのだから別に使っても構わないのだが、そのことをOKにするとどんな場面でも「紙を持っていくのはOK」になってしまう、秩序のない状態になってしまうという考えから「紙を持って行ってもいいけど、1枚だけ」というルールをつけて接することに。
だけど改めてふと考えると、「紙をたくさん持っていくこと」の何がダメなのか。
トイレは決められた場所にしているけど、なんで別の場所はダメなのか。
結局そのこだわりは「その子のこだわり」ではなく「自分のこだわり」になっていないのか。ふと、自分が接している考えが果たして正しいのかがわからなくなってしまいました。
あることをやるためには、それなりの「根拠」があっての行動。
根拠のない行動は、無意味なこと。もっと言えば、根拠がなければやる必要のないこと。だから「トイレへのこだわり」も、こだわりを制するための「根拠」がなければ、制する必要のないこと。子どもがトイレに入ってからの行動を観察していたけど、結局子どもの行動は自分の見立てとは違った行動だった。だから自分が制するための根拠がなくなったわけだから、今回のこだわりは別に制する必要のないこだわり。でも見立てが違ったとしても、じゃ何がその子を「こだわり」にさせるものがあるのか、何が違うのか・・・そこをもっと理解しなければ、根拠のある行動はとれなくなる。
ここにきて何となく、何かを見失いかけているかもしれません。
子どもと接するときの最初の気持ちが、ちょっと失いつつあるかもしれません。「楽しければ、いいじゃん」という気楽な気持ちをなくしつつある自分に、ちょっとだけ気づきました。もちろんこれからの事業展開ということも考えているので「楽しければいい」というわけにはいかないのですが、今一度「原点回帰」する必要があるかな・・・と感じました。あわせて「支援をする」というのはどういうことなのかを、もう一度ちゃんと考え直す必要があるなと思いました。来週までにちょっと「支援」ということについて考え直してみようかな・・・と思います。
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