理屈と「非」理屈
今日の仕事中のこと。
今日は清掃当番だったので、遅出。で、お昼の時間になり、お弁当を並べていると、男性利用者さんがなんだか自分のことを触っている。まぁ別に変な状態でもなかったので、あまり気にもせずそのまま放置。
そして仕事中のこと。
納品する袋を折り曲げていたので何気なく「○○さん、折らないでねぇ~」と言うと「は~い。」との返事。ただ、折ることをやめていない状態。続けて「お願いだから、折らないでねぇ~」というと、またまた「は~い、わかったぁ~」の返事。だけど・・・折るのをやめない状態。というか・・・よくよく見ると、こっちの様子をうかがっている状態。
その時は仕事中だったため、とりあえず注意だけしていた状態だったけど、清掃が終わって自宅に帰る車の中でちょっと一考・・・「なんで様子を見ていたのかなぁ・・・」
なぜに今日こんな話を出すのかというと・・・
実はmixiの中で「叱り方」ということに関して「まず何故なのかを考える」というのを盛んに目にした覚えがあり、ちょっと触れようと思ったのです。きっと数年前の自分だったら色々と「理屈」をこねていたかもしれません。
じゃ今は考え方が変わったのか・・・って、別に変ってはいません。
ただ「理屈の時間」を考えるようになりました。その場で「理屈」を通す場面なのか、そうではないのかということを。
極論を言ってしまえば、便失禁をした利用者さんに「何故失禁するのか・・・」なんてことを考えるよりも、まず先に「失禁した」という事実に対しての対応をしなければなりません。こんなこと、当たり前ですよね。今、その場で便失禁をした利用者さんに「なんで失禁したんだろう・・・そうすればしないのかなぁ・・・」なんて考えるよりも、「便失禁」に対応することが「今やるべきこと」ですよね。失禁してしまったら、お尻を拭いてパンツを交換する、というのはだれでもすることですよね。「便失禁しています。どうしましょう?」という質問に対しての答えは、1つしかありませんよね。
あくまでも今のは極論。実際の現場では自傷他害や問題行動などが議論の中心になると思います。
今回の「折る」というのもその場における1つの「問題行動」であります。ですからその行動に対して「どうしてやってしまうのか」ということを理屈に沿って考える必要はあります。ただ、それを考える時間が「今」なのかは十分に考えなければいけないと思います。今ここでとやかく考えるよりも、まずは「やめさせる」ことを考えるのが第一ではないのか、と思います。「どうして・・・」の部分は今ではなく、その次の段階。ひと段落した後に検討したり、あるいはケース検討・ケース会議などで討議するのが筋なのかな・・・と思います。ここでいうことは別に屁理屈ではありません。ただ、この時点での理屈には沿っていないと感じるので、自分はあえて「非理屈」と呼ぶことにします。
「屁理屈」と「非理屈」は違います。
現場では理屈抜きでいかなければいけない部分もたくさんあります。理屈だけで通れば、専門家なんていりません。理屈じゃ通らない部分があるから、専門職や専門の知識が必要なんだと思います。まずは「現実に起きていること」に対処してから、理屈を考えるべきなのかな・・・と感じます。
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