一期一会
やっぱり仕事をしていないと、ネタが尽きる・・・(^^ゞ
と言うわけで、「トラックバック野郎」より、「あなたに出会えてよかった!」から。
自分の場合は、「出会い」に関して言えば「一期一会」と言う言葉に象徴されると思います。
この「福祉」の世界に足を踏み入れることになったのも、「出会い」がなければ別の方向に進んでいたかもしれません。そういった意味で、27年間の人生の中で一番のターニングポイントは「大学」にあるでしょう。
このblogではあまり多くを語っていませんでしたが、元々福祉を志すきっかけになったのは、母の病気。
母が病気になる前に布石は色々とあるのですが、決定的になったのは母の病気が悪化し「身体障害者」となったこと。その頃はちょうど大学に入学して間もない頃のことだったので「大学辞めて、働こうかなぁ・・・」と思ったくらいでした。当時自分はマスコミュニケーションに関心を持っており、将来はその方向で考えていましたが、このことがきっかけで専攻は方向転換、社会福祉を学ぶことにしました。
と言っても、元々社会福祉を学ぶつもりなんて全くありませんでしたし、「社会学を勉強したい」という気持ちのほうが強かったため、大学は社会学が学べるところ・・・で選んでいました。しかしたまたま大学で「社会福祉」を専門に研究する教授がいたため、2年生以降はその先生のゼミに所属し、勉強をしました。(と言っても、大した勉強はしていませんでしたし、本当に「表向き」だけの勉強ですが・・・)
しかしこの教授に出会ったことによって、自分の人生は「福祉」へと傾いていったのです。
私が大学2年の頃に「養護学校の運動会を見に来ないか?」と誘われ、そのゼミでは自分だけが見学に行くことに。他に上級生もいたけど、ホント数人程度で見学に行くことに。しかし運動会の様子を見て、率直に自分が思ったこと・・・それは「普通の(障害のない)子どもたちと、そんなに変わらないじゃん」と言うこと。もちろん「知的障害」があるのだから多少の障害を持っていることぐらいはわかるけど、でも普通学級にいても決しておかしくもないかな・・・とも感じた。ここから福祉に対する思いは強くなっていき、卒業論文ではこのことがきっかけで「障害児教育」をテーマにした論文を書くことに。と同時に、福祉の世界への憧れも強くなることに。
卒業論文を書いていた当時は、既に大手家電量販店への就職の内定が決まっていた。そのため4年の大学生活は「卒業論文」と「卒業アルバム編集の手伝い」と「学園祭実行委員会OBとしての助っ人」の3本柱だった。だから学校に行ってもやることはなく、大体は卒業アルバム編集室で卒論を書いていたり、学園祭のことで後輩から相談を受けていたり・・・などとのびのび生活を送っていた。しかし卒業論文が完成に近づくにつれ、思いも変化。最初は「数年たったら、福祉の世界に行けばいいや」と思っていたのが、「今すぐにでも福祉の世界に行きたい」という思いに変化。しかし自分には経験も資格もない・・・が、ここでターニングポイントになるのが、やはり卒論の指導教授であるこの先生。自分がこの先生の研究室によく足を運ぶようになってから「社会福祉士」と言う言葉を聞くようになっていた。当時は自分には全く関係のないもの・・・と思って聞き流していたが、「福祉の世界に行きたい」と思ったときに、途端に思い出したのがこの「社会福祉士」。そのことを思い出しネットで社会福祉士のことを色々と調べ、「経験のない自分にとっては、まずはこの資格をとることが先決かな?」と感じ、教授に相談。教授も「いいんじゃないの」との言葉を受け、また就職課でも「中途半端な気持ちで就職するなら、止めたほうがいい」との助言を受けて、入社1ヶ月前に内定を辞退し、その1ヶ月の間に「社会福祉士」の取得できる学校を探し、入学。
まさに大学時代の教授(今となっては恩師ですが・・・)との出会いが、自分の人生のターニングポイントです。
それから専門学校以後のことは「御岳の山」ならびに「Web diary」、そしてこのblogの内容に集約されるわけです。専門学校での出会い、知的障害者授産施設での出会い、そして3月まで勤めた知的障害者デイサービスセンターでの出会い・・・すべての人が自分を「福祉」へ導く「道しるべ」となったのです。特に専門学校を卒業して現場に出てからは、現場でであった上司や先輩職員、そして利用者との出会いは、自分を更なる福祉、「障害者福祉」へ導くものになりました。
以下、その語録を・・・
●専門学校を卒業し、まだ就職先が決まっていなかったときのこと。面接の際に、前全日本手をつなぐ育成会会長・前東京都知的障害者育成会理事長であった故緒方直助氏が自分に言った一言。
キミは、利用者に親しまれそうな顔をしているね。
この一言でこの施設に採用。以後、約2年に渡り知的障害者授産施設の職員となる。
●このときの「採用面接」での裏話。
自分が採用された経緯について、歓迎会の席で、施設長から一言。
「理事長が『あいつ(自分のこと)だ』の一声で決めたのよ」
いわば「鶴の一声」で決まった状態。しかしその背景には、こんなことを退職前に主任さんから聞くことに。
採用面接の時は理事長の他に施設長と主任さんが同席して面接を受けたのだが、全員の面接が終了後に理事長が「(誰を採用するか)○を書け」と施設長と主任さんに言ったとのこと。で実際に○をつけたのを見ると、理事長と主任さんは自分を選び、施設長は別の人を選んでいたとのこと。 しかし・・・理事長は施設長の人選を無視。で、自分が採用されたとのことだった。 (実は施設長が別の人を選んだ背景には深い事情があり、理事長もその事情を知っていたら施設長が選んだ人を採用していたとのこと。主任さんはその事情を知っていたが、その上で自分を選んだとのこと。まぁあまり詳しく話してしまうとちょっと・・・と言う感じなので、この程度で。)
(※2005.2.23、「微妙な心境」より)
●系列施設の職員の方から言われた一言。
「(利用者が)Mitakeさんに会いたくなる気持ち、わかるよ」自分は普段の業務前に「送迎業務」を行っている。その送迎途中で、いつも系列の作業所を利用する利用者が道の途中で送迎車を「待ち伏せ」している。その利用者の職員さんの話では、毎朝自分に挨拶することが彼にとっての「日課」になっているみたいで、会うことが出来なかったりすると、ものすごく残念がるとのこと。
そして昨日は総会。当然この利用者も来ている。だからもちろん挨拶も忘れずに行う。そういうことがあるため、この職員さんと話をすると、いつもこの利用者の話題になる。それでさっきの「わかるよ」の発言につながる。その職員さん曰く、自分に会うとなんか「ほっ」とする、らしい。
(※2004.5.23、「嬉しいような、そうでないような」より)
●知的障害者デイサービスセンターに勤務し、利用者保護者との面談での、保護者からの一言。
今まで(養護学校に在籍していた時代)はちょっとしたことがあると、地面に腰を落として泣いていた。学校の送り迎えの時も落ち着かないで、いつも苦労していた。今回も施設に入所してすぐが落ち着かず、やっぱり私が送り迎えをしなくちゃいけないのかなぁ・・・と悩んでいた。 でも今は落ち着いていて、送迎でも添乗員の方がうまく対応をしてくれているので、とても安心している。それとあわせて、今までの「苦労」から開放されることが何よりも嬉しいことです。
(※2005.6.14、「『より良く』いきること」より)
●デイを退職前に、同じく異動になった職員の人から言われた言葉。
ホント、Mitakeさんにまたこの世界に戻ってきて欲しいよ。今までは「指導」と言う感じで「楽しむ」という感覚はなかった。でもMitakeさんの「楽しい」って言うのはすごく大事だと思うよ。今日のプールも利用者さんと楽しみながらやっていたし、利用者も楽しそうだった。施設の中でも利用者とハイテンションになって楽しんでいる姿ってすごくいいなぁ・・・って思った。今までそういう考えがなかったから、Mitakeさんは貴重な存在だと思うよ。だからまたここに戻ってきて欲しいよ。
(※2006.3.28、「とりあえず、形に残した」より)
今までの仕事の中で、これだけいろんなことがあったんです。
だから「誰に会わなければ・・・」ではなく、すべての人に会ったからこそ、今の自分がいるのであり、今自分が「やりたいこと」「目指すべき道」と言うのが見えてきているのだと思います。そういった意味で、自分にとっての「出会い」は「一期一会」と言う言葉に象徴されるのです。
あーあ、今日は「ネタ逃げ」しちゃったよ・・・(^_^;)
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