「自分自身」に対しての「偏見」
今日は定期通院日・・・とその前に、病院に行く前のグチを。
午後は利用者と一緒に散歩。で、片麻痺のある利用者と一緒に歩いたのですが、今日はその利用者の足が速いこと速いこと・・・後ろの集団とぶっちぎりの状態。一応後ろの集団にあわせるためにちょこっと寄り道をして見たり、日向ぼっこをしてケータイの着メロを聞かせて反応を伺ってみたり・・・などと色々な働きかけをしました。で、たしか散歩に出発する前に「散歩した人から、どんどん車に乗って行きましょう」と言う取り決めをしておいたので、ある程度歩いたこともあり、車に早めに戻ることに。
ところがその後の集団が戻ってきて、他の職員が自分に言ったこと。
「なんでこんなに早く乗っちゃうのよ。寒いわけじゃないし、もっと歩けばいいじゃない!」
あのぉ・・・取り決めは・・・って感じ。それにさぁ・・・いくら「速い」とはいえ、あまり動かせすぎちゃうのもどうなのかなぁ・・・と判断を決めかねていた部分があったから、とりあえずの判断でこう言う行動をとったのに・・・何故か、文句を言われてしまった。
もっと言えば・・・職員配置のこと。男性利用者と女性利用者一緒に行ったけど、その場にいた男性職員は自分ひとり。と言うことは、何かあれば自分が対応する可能性だって十分にあるし、そういう対応が必要になりそうな利用者が一緒にいたもの事実。しかしその集団とは離れてしまったため、もしも何かあったときのために、すぐに動ける体制をとっておいたつもりだったのに、逆に文句を言われてしまった。
ご存知の通り、一番「新人」の職員。そして他の職員は口の立つ職員。自分、言い返すことはできずただただ「ハァ~((+_+))」と言う感じ。色々自分なりに考えて行動したつもりなのに・・・で、いざとなったら「それは常勤さんで・・・」って、そりゃ、ちょっとおかしいでしょ。なんか納得行かない気分。俺的には利用者の心をゲットしながら散歩をしていたんだけどなぁ・・・
ちょっと腹が立ったけど、オトナなので気持ちを抑えて・・・ここで発散。(爆)
さて話は通院の方に移って・・・話の中心は「嫌な夢」が主題でした。
先生からも「ずいぶんリアルな夢だね」と言われつつも、現実に感じたことだったので、思いのたけを言いました。今日はほとんど待つこともなく、すぐに診療。今日の診療時間は約15分。きっと先生にとっては大したことではないのかもしれないけど、それを受け止めて自分の言いたいこと・思いをすべて聞いて汲み取ってくれるので、そういった意味では今の先生は信頼のできる先生でもあり、何でも話せるDrでもあります。
ただ1点。「パニック障害」のことに関しては、自分自身でも消化不良の状態。
先生からは「別に怠惰で学校を辞めたわけじゃないんだから、遠慮なく話してもいいと思うよ。」との助言が。その助言を受けるに当たっては、色々と経緯があるわけで・・・
元々今の職場を選んだのは「OTの学校に通学するのに支障のない範囲で可能な仕事」として勤務条件が一致した施設であったために選んだ職場。いわば「OTの学校に通うため」に選んだ職場であり、すべての前提条件と「学校」があった。しかし今はその前提条件である「学校」の存在がなくなっている。役職のある上司だけには既に自分の障害のことと学校に行っていないことは8月の下旬の段階で話をしてあるのだが、実は「退学をした」と言う事実については話をしていない。あくまでも「休んでいる」と言う名目の元に話を進めている状態。ただ今の職場の契約期間が来年の3月までなので、契約満了と共に退職するつもりではある。そのときに「退学する方向で考えている」と上司には話すつもりでいる。
しかしこのこと、他の職員には伝えていない。と言うより、話していない。むしろ、話せない。
だから今も上司以外の職員は自分がまだ学校に行っているものと思っているし、障害を持っていることも知らない。さらに、同じフロア内の別部署の職員も自分が学校に通っていることを知っているため、尚更言いにくい現状があるのも事実。こんな現状があるから、「3月までの辛抱だ」と自分に言い聞かせながら仕事をしている状態。
でもこのことを話せない一番の理由は「自分自身」にあるのだと思う。
自分自身に対しての「偏見」があって、それが壁となって切り出せないのだと思う。「自分がパニック障害であるということ」と「学校に行かなくなってしまった」と言うことが他の職員に知れてしまうことで、自分自身が偏見の目・・・と言うより、なんか違う見方をされてしまうのではないか、と言う不安をもっているのかもしれない。だから職場で「学校っていつまで?」と振られても「えーと・・・覚えてないっす」と、話をうやむやにしてしまおうとしている部分があるのかもしれない。つまり、もし自分が逆の立場・・・障害を持っていて、それが理由で学校などを辞めてしまったことを知ってしまったら、もしかしたら自分はその人を「色眼鏡」で見てしまうのではないか・・・そのことが自分にそっくり当てはまり、自分も現状がわかってしまうことに対して「色眼鏡」で見られてしまうのではないか・・・という不安をもっているのだと思う。これが「自分への偏見」なんだと思う。そしてそのことを3月まで・・・いや、今の職場を離れるまで耐えることができるのだろうか、どこかでボロが出てしまうのではないだろうか・・・と思いっきりガードを固めている自分がいるために、結果的に「話せない」「話さないまま、終わってしまいたい」と言う気持ちがあるのかもしれない。
たしかに「てんかんの疑い→パニック障害」と言う診断が出て、「障害を持つと言うことの辛さ」は身をもって実感した。また精神科・心療内科に行くことへの偏見も仕事の中で解消はできた。しかし、それがいざ自分のことになると・・・未だに社会に根強く残っているだろうと思い込んでいる「偏見」を気にして、すべてをオープンにできない自分がいる。頭の中ではわかっているけど、それと心と体・気持ちがついていっていないことへのラビリンス。そんな思いがあって苦しんでいることも事実です。このことは職員に限らず、利用者に対しても同じことで、利用者に「Mitakeは今日は病院に行くんです」と話すと「どこか悪いの?」と聞いてきてくれる。たしかに悪いところがあるから病院に行く。でも・・・それを説明することは彼らに対してはあまりにも難しすぎることであり、逆にそれを理解してもらうことももっと困難なことである。ただですら社会でも理解されにくいものを、彼らが理解するのはあまりにも難儀なことである。だから彼らから「Mitakeさんのブログ教えて」と言われて教えたところで、この内容を理解してもらえる可能性は皆無である。そして逆に、ここに書いた内容を読んだ保護者はどんな反応をするのだろうか?
やっぱりそこにも「偏見の目」を気にする自分がいるのである。
ただし・・・これはあくまで自分の「福祉観」としての考えだけど・・・
「偏見」があってこそ、それが解消されて「理解」につながるものであるのだろうなぁ・・・と言う考えを持っているのは事実。例えば今まで知的障害者と接したことのない人が何度か知的障害者と接することによって、「知的障害」と言うものを理解してくれることがあるのは事実であり、その理解の過程には少なからずとも「偏見の目」が先行している可能性があるのも事実である。つまり「自分が思い描いていた像=偏見」が実際に接することによって「真実の像=理解」につながっていくのだと思う。だから横暴な言い方をしてしまえば、偏見なくして理解はない、ともいえるかもしれない。
福祉専門職としての「Mitake」と個人としての「Mitake」。発作以降、複雑な心境が混ざりあっている状態です。
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