コトバ★「支援その3」
今回のコトバは「支援」の第3弾。その時その時で色々と書きたい内容があるのですが、時期がずれてしまうとなかなか上手くいかないもので・・・前回もタイミングの問題で書き損じてしまい、結局書きたかった内容を忘れてしまったので、結局こんな内容になってしまいました。
と言うわけで、書くタイミングを外してしまいましたので、無難な「支援」のことについて書きたいと思います。
第1弾は身近な生活の中でふと感じた「支援とは?」について、第2弾は福祉サービスとしての支援の考え方について、それぞれ触れてきました。「支援」と言う言葉は奥深いものであり、触れれば触れるほど、その難しさにぶち当たります。もちろん対象者によってそのあり方は変わってくると思いますが、どのような場合でも実際に行っている支援が、真に利用者のための支援になっているのか、と言うことに関しては考えていかなければならないことではないか、と思います。
「対象者によって変わってくる」と言いましたが、基本的・根源的には対象者が違っても基本にある「支援のあり方」は同じではないかと思います。接し方の相違、目指すべき方向性・内容など、細かい部分では違いがありますが、高齢者であっても障害者であっても、そして児童であっても「よりよく生きる」と言うことに関しては変わらないことではないか、と考えています。「よりよく生きる」と言うのは私自身の福祉観でもあります。
では「よりよく生きる」とはどういうことなのか?
現場3年目の自分にそのことを多く語る自信はありませんが、「その人らしく生きる」と言うことではないのか、と思います。もしその人自身で物事を判断し、決断することができる、あるいはその意思を表出できることであれば可能な限りその意思を尊重し、その意に沿った援助をしていくことが大切ではないかと思います。もちろん所属施設の目的によっても多少の差はあると思いますが、あくまで「一方的な支援」ではなく「相互関係的な支援」であることが望まれると考えています。つまり職員の都合で動くのではなく、利用者の立場に立って行うべきものだと考えています。例えば利用者があることを希望した場合、その施設において実施可能な場合、またそれを実施することによって他者への危険性を生じさせないことが明らかな場合、または社会的に見て不適切ではない場合は、極力その気持ちを大事して実践していくことが必要ではないか、と思います。
兎角思うことは、自分が利用者の支援をしていて「あぁ、なんか職員の都合で動かしちゃっているなぁ・・・」ということ。
だから今回、あえてこう言うことを書くのかもしれません。自分のいる知的障害の現場は、その障害の程度が様々です。今の施設ではどちらかと言うと重度に分類される人が多いのですが、意思を表出できる人もいますし、自分の考えを持っている人もいます。もちろん「考えの深さ」と言う部分では健常者(あまりこう言う言葉を使うのは好きじゃないけど・・・適切な言葉が見当たらないので、使ってしまうのですが・・・)に比べたら低い部分がありますが、それでもその施設に見合った趣旨に基づいた支援をしていきたい、と言うのが自分の考え。授産施設なら「社会的自立に向けられた支援」が中心であったけど、デイサービスの場合は「いかに生活への刺激をもたらすか」が中心であるように思えます。つい最近まで、自分は「自立した生活を送るためには」と言うことばかりに考えがいっていましたが、最近になって「いかに活き活きとした生活を営んでいくことができるか」と、少し考えが変わってきました。その中で「たしかに訓練的要素は必要だけど、それ以上に余暇生活をいかにして創造していくかの方が重要ではないか」と感じるようになってきました。つまり「生活の幅を広げていく」ことが今の施設の目的に近いのではないか・・・と感じているのです。その中で「あーだから」「こーだから」と言って知らず知らずと職員の都合のいいように利用者をセーブしてしまっている自分に、少し不満がある状態だからこそ、そしてその思いが上手くいえないからこそ、あえてこのような形で声を大にしているのだと思います。
前回に続くことかもしれませんが、生活の中心にあるのは「利用者」であって、利用者の気持ちがあってこそ支援が始まるのです。職員の考えありきでスタートするのではなく、まず利用者の気持ちがあってからこそスタートできるのです。支援を行うに当たっては、その視点を忘れてはならないのです。
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