やっぱり今年も、書かせていただきます。
例により今年も、このことを書かせていただきたいと思います。
ハイ、24時間テレビです。ただ、今年はちょっとだけ「柔和」になっています。
去年の24時間テレビは「激辛」の批評でした。きっと自分が片足だけ突っ込んでいた状況だったので尚更だったのかもしれませんが、去年と今年はちょっと状況が違う。今年は完全に第三者の目で見ていたし、何しろ自分自身が少し障害を持っている感じ。だから違っているのでしょう。
生きるということ・・・
「『生きる』のではなく『生かされている』のである。」「1人では生きられず、周りに支えられて生きている」
この言葉は納得です。本当に、そうだと思います。このblogを通じて、そのことを実感していますし、自分の家族の中でもそのことを痛切に感じます。きっと本当に一人ぼっちだったら、自分はもしかしたらこの世界から消えてしまっていたかもしれない。何もかもが絶望に突き落とされて、この世界から自分の存在をなくしてしまっていたかもしれない。でもこうやって「自分をさらけ出す」ことによって、いろんな人からの支えがあることを知った。だから徐々にであるけど、少しずつ色んな力を借りて僅かながら前に進んでいるのかもしれない。この部分に関しては、今回はマルを付けたいと思います。
しかし、番組の内容・・・という点では、相変わらずかなぁ・・・といった感じかも。
坂本竜馬の宝探し・・・って、何が「24時間テレビ」とリンクしているの、って感じ。「同窓会スペシャル」も元気TV・電波少年などの秘蔵版放送自体は「番組」としては面白いけど、それをあえて「24時間」でやる意味は一体どこに・・・という感じ。この点は去年の批評でも書いたように「24時間にこだわる意味」につながっていくだろう。
それと障害者の挑戦シリーズ。挑戦することはいいことだし、それによって勇気が与えられるのであれば、賛成です。
しかしこの番組の企画に出ている障害者の人は、数ある「障害者」のほんの1つに過ぎません。もっと言えば、「目に見える障害」に着目しているのであり、目に見えない障害に関しては、ほとんど触れていない、と言ってもいいだろう。もっと過激なことを言えば、障害者の「光」と「影」を映していないといってもいいのかも。こうやって表に出てくる障害者は「光」の部分であるが、実際には「影」に隠れた障害者はたくさんいる。特に施設入所をしている障害者のうち「重度」と呼ばれる人の場合は、完全に「影」であろう。排泄の自立が困難、社会性に難しい部分がある、多動、自傷他害・・・きっとこんな部分をテレビでは放送できないだろう。
いや、放送できればそれは大きな進歩であると思う。
結局のところ、こういった機会がなければ障害者が出る機会は少ない、と言うことだろう。
障害者自立支援法の目指すものの中に「障害のある人が普通に暮らせる地域社会づくり」ということがあげられているけど、24時間テレビがこのような企画を立て、企画として成立するのは、まだまだ障害者が「特別な存在」として見られているために、このような機会がなければ「普通に暮らせる」と言うことの実現が難しい、と言うことなのかもしれない。まだまだニッポンのノーマライゼーションは進んでいない、と言う現状を皮肉にも番組で証明しているのではないか・・・と考えてしまいます。ただし、このことがきっかけで着目する人もいるのは事実であるので、ノーマライゼーション啓蒙のための活動としては、一利はあるのかなぁ・・・と思います。
でもやっぱり、あんまり好きになれないなぁ・・・全体的に。
たしかに去年に比べたら、だいぶ進歩はしているのかな・・・とは思います。番組の最後に「本当の主役はあなたです!」と声を張り上げなかったことは多少の評価に値するけど、でもやっぱり考えるべきだようなぁ・・・と思った、今年の24時間テレビです。
あ、もちろん全部なんか見ていません。部分部分だけしか見ていませんから・・・
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