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2005.07.23

コトバ★「障害の受容」

今日のコトバは「障害の受容」。
今日のことも踏まえての、内容にしていこうと思います。

「大辞泉」によると、受容の意味は「受け入れて、とりこむこと」と書いてあります。
つまり「障害の受容」とは「自らが負った障害を、受け入れ、とりこむこと」と言えるでしょう。もっと専門的に言えば「自分自身の身体障害を、日常生活との関連で現実的かつ客観的に心の中に受け止め、それが本来の自分の姿であるという事実を、抵抗なく受け入れること」といえます。

しかし人間、そんな簡単に障害を受容できるものではありません。
一般的に「障害を受容する過程」には「退行→和解→適応→障害の統合」を踏むと考えられています。
このことを詳しく話すために、自分を例に挙げて説明してみましょう。

自分は今まで何の不自由もなく生活し、そして自らが福祉専門職として、支援者として仕事をしてきました。
ところが、ある日突然、発作が「再発」し、病院に行き診察を受けた結果、「てんかんの可能性」の診断を受けました。てんかんがどのようなものか理解している自分にとっては、てんかんは「脳の障害」であることを理解しました。
この瞬間から「障害の受容」の過程が始まるのです。

「てんかん」と言う障害を告げられた時、自分は深く落ち込み、そして泣きじゃくりました。
この部分が「退行」にあたるわけで、障害を告知された時に告知されたことへのショックや混乱、そして深い悲しみや怒りが存在します。「どうして自分だけこんな目に遭うのか」と言うのはまさに「怒り」の部分であり、「目の前が真っ暗になった」と言う表現は、活きることすべてに対して絶望の状態に陥っているわけです。
そしてこの状態は次第に「抑うつ」の状態へ移行するわけです。まさに今の自分は、この段階かもしれません。

抑うつな状態が続いている中においても、自分はいつもと変わらずに仕事や学校に行っています。
完全に絶望しているわけではないんですね。「退行」の段階でありながら一方で「福祉専門職」として「なってしまったものは仕方ない。戻るものではないのだから・・・」と割り切って生活を送る自分もいます。もっと言えば「自分より障害の重い人はたくさんおり、その人たちに比べたら自分の障害は軽いものだ」と考えるようになります。それは「Mitake個人」としてでもあり、重度障害者と接している「福祉援助者」としてでもあります。
この部分が「和解」であり、「障害のある自己を、自己の存在として認めていく」ことを意味します。と同時に、「適応」の段階も踏んでいます。「適応」とは「障害の受容に積極的になる」ことを意味しており、この2つを分析すると「Mitake個人」としては「和解」の段階(なってしまったものは仕方がない、と言う考え)であり、「福祉援助者」としては「適応」の段階(重度障害者と接している・自分より障害の重い人がいるから自分は大したことはない、と言う考え)にいると考えられます。
そしてまだ自分はこの段階にはいませんが、「障害の統合」とは「障害がその人格に統合され、不幸を過去のものと考える」ことを意味します。ただ、自分自身はまだ「過去のもの」とは思えていませんので、この部分の経験はありません。

一般的に障害の受容はこのような過程を踏むのですが、既に気づいている方もいると思いますが、「このような過程を踏む」と言いつつも、実際はそのようになっていない現状があります。端緒な例が「抑うつ状態でありながら、自分の障害は軽いものだと考えている」、この部分は「退行状態」でありながら「適応状態」でもあります。つまり、障害の受容の過程はあくまで「一般論」を語ったものに過ぎず、実際にはその受容の過程や段階に個人差が生じるのです。自分みたいに知識のある人間が障害を受け止めるのと、何も知らない人が障害を受け止めるのでは全く違いますし、受けた障害の内容・・・身体障害なのか、精神障害なのかによっても、その受容は異なってきます。
受容が異なる背景・・・そこには常に「心」が存在しており、気持ち1つで障害の受容は異なってくるのです。

と、ここまでは自分事例を挙げた「机上の学問」の話をしましたが、実際に「障害の受容」を語るときに、やはり実際に障害を負った人が語るのと負ったことのない人が語るのでは、その説得力に雲泥の差があります。と同時に、その「言葉の重さ」も全く違います。

このことを説明するのに、「相田みつを」を用いたいと思います。「コトバ★てんかん」でも「障害の受容」について少しだけ書いたけど、「受容するってどういうことなのか」と言うことを教えてくれたのが、相田みつをの「体験して」と言う詩


体験してはじめて身につくんだなあ


先日行ってきた企画展ではこの詩が「忍」と「泣」の間に挟まれて展示されていました。
そしてこの「体験して」には、次のような解説が付けられていました。

やけどについて辞書で引くと~(やけどの意味が書いてあるので、ここでは中略)~これは「やけど」というものを、知識として頭で理解するやり方です。もう1つのわかり方があります。 うっかりして、焼けたアイロンに手を触れてしまいました。その瞬間、「アチィ!」(中略) 頭でわかることとは根本的に違います。どっちのわかり方が本当でしょう? (相田みつを美術館企画展ブック「一生勉強一生青春」より)

コトバ★てんかん」で書いた「今まで散々『障害の受容』と言うことを言ってきた自分が、いざ自分のことになると受容できていなかった現実。いかに自分が絵空事のように『受容』と言う言葉を使ってきたかと言うことを思い知らされました。」と言う文章、まさに「頭でわかることとの根本的な違い」の1つです。自分が障害の当事者になるまでは「知識として頭で理解する」ものであったけど、「てんかん」というアイロンに触れて初めて変わった「障害を持つということ」の意味、そしてその受容の困難さ。初めて「相田みつを」の作品に触れたこの詩は、自分にとって「合言葉」のような存在であり、忘れることの出来ない詩であります。
と同時に、「障害を受容するとはどういう意味なのか」を端的に教えてくれた詩でもあります。

そして今日、定期診察のための通院と、新たな心療内科へ行ってきました。
定期診察ではうっかり「車を運転したこと」を話してしまい、怒られてしまいました(当然のことですが・・・)。てんかんの場合は原則として一定期間発作が認められない限り自動車の運転は認められないのですから。しかしその後に行った心療内科で、新たな展開がありました。
それは「てんかんの可能性は低い」ということ。

心療内科でありながら、その病院は「てんかん」の診断に力を入れている病院。
診察したDrもてんかん学会の認定医で、てんかん医療に関しての経歴が長いDr。そのDrからこれまでの症状を説明し、その状態についてまとめた文書、そして紹介状を見ての判断は・・・「てんかんである可能性は低いと考える」とのこと。当然問診だけでは判断できないため、来月中旬に脳波検査をしてからの診断になるけど、今回新たな病院を受診・・・セカンドオピニオン(本当は前の心療内科での受診に疑問を持っていたから病院を変えた、と言った方が正しいけどね)を受けた結果が、今回の「てんかん否定診断」。昨日まで服用していた抗てんかん薬(リボトリール)も今日から服用中止に。
正直、「てんかん」ではないと言うことに関しては喜んで良いのだろうし、お酒や車も問題なくなるのだから自分にとっては「良い診断」なんだろう。でもその一方で「発作」として現れた症状は一体どのように説明をするのか?学校でやったクレペリン検査の結果を見て「真面目な性格なんですね」と言われたけど、単に神経だけの問題なのであろうか?結局「神経論・精神論」に戻ってしまうのだろうか?

何が知りたいのか・・・一番自分が知りたいのは、どうして発作が起きるのか?
そして正式な診断名は何なのか?これは病気なのか?治療可能なのか?完治するのか?
発作は起こさずに済むのか?
てんかんではないといわれた結果、「???」が増えたのも事実。正直聞いてみたかったけど、あくまで今日はインテークの段階。なので脳波検査後に、もっと先生に突っ込んで相談したり聞いてみたいと思います。

ただ・・・仮に「てんかんではない」と診断されても、「てんかんとの生活」のカテゴリーは残します。
「てんかん」として治療を受けてきたことは事実だし、きっと心療内科に通院することは今後もしばらく続くと思うので、カテゴリー名を変えるときは、その時にしたいと思います。
とりあえずは、今日の現状報告です。


参考文献
新版社会福祉士養成講座10「心理学」(中央法規)

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