すみません・・・
何とかして「明るい」内容を書こうと思っているのですが・・・どうもそんな心境とは程遠い感じです。
自分自身のこと、親に対してのこと、支援者としてのこと・・・
なんだか、色々と考え、ちょっと思い悩んでしまっています。
「誰かに打ち明ければ・・・」と言う次元の問題ではなく、結局のところ自分自身で消化しなければならないこと。
でもそれって、裏を返せば「消化してもらえる存在がいない」ということでもあるのかな?
これって・・・「孤独」ってことなのかな?
でも裏を返せば、自分も同じことをしていたのかもしれない。
当時はまだ知識もなく、福祉のことを知らなかったし勉強もしていなかったからわからないけど、母親が障害者になった時に、自分は母親のことについて色々と手続きをしたり、話を聞いている「つもり」だった。
だけど、今日色んなことを話したら、何だか面倒くさがられちゃった感じがあった。
きっと母親自身はそんなことを思ってもいないのだろうけど、何となく自分にとっては「空虚」に感じた。
「~つもり」と書いたのは、結局自分がやっていたことは心から母親を受け止めていたのではなく、表面的に受け止めていただけだったのかもしれない。
そのことを、障害を負った(可能性のある)自分は、初めて実感し、感じているのかもしれない。
そもそも「可能性のある」と言っている時点で、まだ自分が自分自身を受容できていないのかもしれない。
てんかんに対して、うつに対して、そして自分自身の存在に対して・・・
「受容」に関しては、近いうちに「コトバ」として取り上げるつもりです。
だけど今の自分は「受容」以前に、自分の存在そのものを「否認」しているのかもしれない。
「否認」しているから「孤独」と感じているのかもしれない。
表面上は、仕事でも学校でもちゃんと取り繕っています。
でも実際は、にっちもさっちもいかない状態、と言うのが今の本心です。
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