1週間経ちました。本当はやらないつもりでしたが、気分を変えてやることにしました。
もちろん、内容も意味のあることです。今回のコトバは「てんかん」です。
何故これを取り上げるのか、その理由はまた後ほど。
★「てんかん」とは?
平たく言ってしまえば、脳内の電気的信号が乱れて失神などを起こす、脳の病気です。
ただこれだけでは語弊・誤解もありますので、詳しい説明を日本神経学会が紹介する「てんかん」の説明を元に話していきたいと思います。
先ほども述べたように、てんかんとは「脳の電気的信号の乱れ」と話しましたが、学会の説明では「脳内の神経細胞の異常な電気的興奮に伴って痙攣や意識障害などが発作的に起こる慢性的な脳の病気」と紹介されています。難しい話になってしまいますが、私たちが体の中で何らかの情報伝達を行う際、そこには「電気」と刺激を用いて情報伝達を行っています。筋肉を動かしたりするのも「電気」が関わってきます。心電図をとる時も、体に電極(タコみたいな吸盤ですね)をつけて心臓の動きを見ていますが、あれも「電気的信号の流れ」を見ているのと同じです。心電図を見て、異常な波形を見つけて狭心症などの診断を行っているのです。
脳にも同じことが言え、脳内において「異常な電気的信号」が発生・あるいは流れることによって意識を失ったり、痙攣を起こす状態の疾病を「てんかん」といいます。
★「てんかん」の診断は?
単に失神したり痙攣することが「てんかん」と言うわけではありません。
てんかんは「脳の病気」と言った様に、診断には「脳波検査」が必要不可欠となります。失神した原因が「脳の電気的信号」によるものなのか、あるいは別の疾患(脳梗塞、脳貧血など)であるのかを判断するためです。てんかんの場合、一般的に脳波検査によって脳波に「棘波」(とげ状の脳波が乱れて記録される)が現れます。通常であれば棘波は出現しません。また脳貧血などでも出現することはありません。これがてんかんであるか否かの大きな判断要素になります。
★てんかんの種類
一般的に「てんかんが起きている状態」のことを「発作」といいます。一言にてんかんと言っても、その発作の種類はいくつかに分けられています。学会の紹介では発作・てんかんの種類(病型)として、次のものが挙げられています。(以下、日本神経学会ホームページから引用)
1.強直間代発作(きょうちょくかんだいほっさ)
全身の痙攣、あるいは脱力などが突然起こることが特徴です。そのうち強直発作はいきなり四肢、頚部、体幹などの筋のつっぱりあるいはこわばりが起こり、このため身体がねじれると同時に意識消失がみられます。間代発作と呼ばれるものも手足が突然に屈曲伸展してガタガタとふるわせる痙攣発作です。これら2種の発作は伴うことが多く強直・間代発作と呼ばれており、多くの場合意識消失とともに全身性強直痙攣が起こり、次いで間代性の痙攣発作へと移行します。発作は数分で治まり、しばらく意識不鮮明やもうろう状態あるいは睡眠に移行したあと正常に返るのが一般的な経過です。
2.失神発作(しっしんほっさ)
子供に多い型で、5~15秒の短い意識消失発作が起こり、そのあいだ患者さんは今までしていた動作を一時的に止めてじっとしており、再びもとの動作にもどります。あまり短いと周囲の人も気づかないことがあり、また学校での授業中ボーとしていると指摘され、不真面目な児童と誤解されることもありますので注意が必要です。複雑欠神発作は意識のない間、意味のない自動運動や軽い筋肉のピクつき、脱力、突っ張りなどを伴う発作です。
3.ミオクローヌス発作
顔面、四肢、体幹などの筋肉に短時間のピクッとした痙攣が起こる型です。脱力発作は頭部、体幹、四肢などの姿勢を保つのに必要な筋肉の脱力が短時間発作的に起こり、そのため患者さんは尻もちをついたり、ガクッと頭を前にたれたりし、同時に瞬間的な意識消失を伴うものです。
4.部分てんかん
意識障害の伴う型と伴わない型があります。痙攣などの運動が身体の一部にみられ、しばしばそれが他の部位に連続的に広がっていく運動性の発作は、口周などに痙攣が始まることが多く、手足→口周→同じがわの身半分→全身などにひろがり、全身に痙攣が及んだところで意識を失うのが一般的です。また身体の一部に起こった異常感覚がほかにひろがる感覚性の発作もあり、腹痛、下痢などの自律神経症状が発作的にみられるようなものもあります。
5.特殊なてんかん
乳児や小児の患者さんにみられることが多く、点頭(てんとう)てんかんと呼ばれるものは、急に頭を前に倒し、下肢を伸ばし、上肢を上方にあげ、胴体を曲げる、いわゆる礼拝に似た動作がみられる発作を起こします。精神的および運動の発達障害がみられることが多く、また原因として全身の病気が関与し、特殊な治療が必要なこともありますので、専門医への受診が早急に必要です。レノックス症候群と呼ばれるものは、2~4歳の幼児に多く小発作としての脱力発作やミオクローヌスを伴った欠神発作が頻発するもので、精神や運動の発達障害があり広範な脳障害によって起こるとされています。脳波が特徴的な異常を示すため診断は比較的容易です。反射性てんかんは、光音、音楽、触覚などさまざまな感覚刺激、あるいは自分の運動、条件反射などにより誘発されるてんかんです。数年前にテレビ番組のポケモンを見て、多くの子供さんに痙攣が起こり話題になりましたが、このてんかんと考えられています。
★「てんかん」と「発達障害」
知的障害者施設などにいかれたことのある方がいましたら、きっと施設内でヘルメットをかぶった人を見かけたことがあるかもしれません。また街中でもヘッドギアのようなヘルメットをかぶっている人を見かけたことがある人もいるのではないでしょうか。ヘルメットみたいな、ヘッドギアみたいな帽子は「保護帽」と呼び、補装具・日常生活用具として一定の障害の状況にある人に対して給付されるものです。保護帽の目的は言うまでもなく「頭部の保護」が目的で、肢体不自由の方にも給付されています。そして知的障害を持つ人に対しても給付されており、てんかんを併せもつ知的障害の人が給付を受けているケースが多くあります。
私も施設に勤務していて、てんかんを持つ利用者と接してきました。しかし「発達障害」とてんかんの間に基本的な因果関係はありません。ここで言う「因果関係」と言うのは、「てんかんを持つ人が知的な障害を持っているわけではない」と言うことです。たまたま「発達障害」とてんかんを併せ持っただけのことであり、一般的に存在する病気でもあります。てんかん患者の数は人口10万あたり約200~300人で、0.5~1%の有病率といわれています。
さて、何故今回「てんかん」を取り上げたのか。この1週間、ネガティブな状態だったのか。
すべては、ここにあります。
昨日の記事で書いた「明日の通院次第」と言う内容、実はてんかん発作の検査結果の確認でした。
結論から言えば、てんかんではないものの、抗てんかん剤の服用を必要とするかもしれません。今日の約束で病院に行ったのですが、担当医が不在だったため改めて通院することになりますが、恐らく治療が始まるものと思います。
「休みました。」で書いた泣きっぱなしの状態、あれはDrから「てんかん発作の疑いがある」との診断で、さらに「仮に脳波で異常が認められなくても、服薬などで治療を必要とする」との説明に、ショックを受けていました。その前の「ゴメンなさい」は正に発作と同じ状態が起きていたからです。
「ゴメンなさい」を書いたその日、実は学校で意識を失いました。
授業は生理学、ちょうど人体解剖のVTRが流れている時で、その映像を見て「気を失うかも・・・」と思いながら意識を保っていました。しかし自分の考えとは裏腹に、自分は気を失って倒れていました。そのときに周りのクラスメートから「どんな風に倒れたか」の情報を聞くと、てんかん発作と同じ症状を示していました。
突然後ろに「バタン」と倒れて、体が硬直して、痙攣していた。倒れていたのは30秒から1分くらい。
実は倒れたのは、今回が初めてではありません。
初めて倒れたのは10歳の時。やはり状況は学校の授業中で、先生が話をしているときに倒れていました。まだ回りは子どもなので状況については具体的に把握はできないときでしたが、少なくとも「小学生の時」と「今回」の状況が全く同じであることはわかっていました。
また倒れたのはこのときだけではなく、22歳の時と26歳になった時に2回、意識を失っていました。このときはトイレの中で意識を失っていましたが、どの状況でも共通している自覚症状としては、「目覚めた時に金縛りから解放されるような感じ」と言うことでした。小学校の時と全く同じ状態、これまでに4回の意識消失、さらに26歳になって2度目の意識消失・・・職業上のこともあり、通院することにしたのです。
そして診断されたのが、「てんかん発作の疑い」と言うこと、さらに「いずれにしても服薬が必要」とのこと。
確定ではないものの、正直ショックでした。
今まで自分が「てんかん発作を持つ利用者」と接していたのに、実は自分もてんかんであるかも知れない・・・いわば「ミイラ取りがミイラになった」状態。もちろん職業上「てんかん」についての知識は多少ながら持っているから、てんかんが薬によって適切にコントロールできれば日常生活上は何ら問題がないことは十分に理解していました。しかしそれがいざ自分の問題となると、話が別になっているみたいで・・・「福祉職としての自分」としては理解しているものの、「個人としての自分」としてはその現実が受け入れられていない状態。正直、なんともいえない状態でした。
また対人援助職、直接処遇を業としているものとしての不安があるのは事実。
あるいは、これから作業療法士を目指そうとしているものが、「発作の可能性」を孕んでいることへの不安。仮にてんかんではなかったとしても、今後も続く解剖系の授業に「失神の可能性」を感じながらその現実と向き合わなくてはならない不安。そして「再び、授業中に気を失ってしまった」と言うこと自体へのショック。
作業療法士になるため前の職場を離れ、新しい職場を見つけて働き出し、学校にも進学した。
そんな矢先に起きた、「てんかんの可能性」の診断・・・ものすごく大きなショックでした。
何もかも失ってしまったかのように・・・そして、どうして俺だけがこんな目にあうのだろうか、と言う気持ち。
でもこれだけ大きなショックを受けても、1つだけ学んだことが。
それは「障害を受容するということの難しさ」。今まで散々「障害の受容」と言うことを言ってきた自分が、いざ自分のことになると受容できていなかった現実。いかに自分が絵空事のように「受容」と言う言葉を使ってきたかと言うことを思い知らされました。
もちろん自分の中に「受容できている自分」と「受容できていない自分」がいたのは事実。
「福祉援助者としての自分」はてんかんのことも知っているし、そんなに大きな病気ではないことを理解しているから「社会福祉士」としての自分は障害に対して受容はできていた。でも「1人の個人としての自分」は「てんかん」と言う言葉を聞いてショックを受け、何もかもを失ってしまったかのように錯乱し、そして深いうつ状態に陥っていた。
そこには、「受容」と「拒否」の「二人の自分」が存在していた。
ただ、今はだいぶ落ち着いています。
別に「てんかんではなかった」から落ち着いているというわけではなく、冷静を取り戻しつつある、と言った方が正しいかもしれません。事実、「てんかんではない」と言う診断を受けても、今後抗てんかん剤の服用を検討する内容がカルテには記載されていたし、てんかんではなくとも「今後も授業中に気を失うかもしれない」という不安と戦い続けなければいけない現実があり、決して心から晴れ晴れしているわけではありません。まだまだ不安はいっぱいですし、穏やかな気持ちにはなれません。きっと先行きが全く見えていないからだと思います。
とりあえず、1つの診断が出たので、区切りの意味でカミングアウトしました。
まだ当分この問題は続きますし、引きずりますが・・・こう言う背景があったので許していただければと思います。
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