社会経験
本日の業務内容
午前、古紙回収。朝、一時雪が舞い吹雪いて「大丈夫かぁ?」と思ったが、1時間後にはすっかり晴天。ただし依然として風は強かったため、段ボールが飛ばされないか冷や冷やもんでトラックを運転。もちろん飛ばされないようにロープで縛ってはあったけど、ハラハラドキドキの運転を久しぶりに経験。ちなみに古紙回収、どうやら2ヶ月ぶりに行ったみたい。
午後、行事でホテルへ。内容は「納会」、いわば利用者との慰労会、と言ったところ。
本日、記念すべき500本目の記事。500本目の記事の内容は、今日の納会から。
ぶっちゃけ、今日の納会は「予算消化」の意味合いもあった。ただ、今まで納会は他の作業所と合同で行っており、さらに1日かけての行事だった。さらに保護者同伴で、午前にレクリエーション・午後は会食、と言う形であった。
今回は合同で行う必要がなくなったため、その内容についても検討した。もっとも今年度は理事長が逝去し、それによって行事などを含めて「運営方針」が大きく変わったため、流れた行事も多々あった。今回の納会もその1つで、当初は「合同」が視野に入っていたが、理事長逝去に伴い合同の必要性がなくなった。それに伴って元々計上されていた予算も見直しを余儀なくされ、今回の形となった。
で今日は何をしたか・・・と言うと、ホテルでフルコースのランチ。
普通の企業で昼間っからこんなことをやれば、糾弾される可能性が非常に高いことを平然とやっている。多分こう言うことができるのは今回までで、来年度以降はきっと実現は無理だろう。
ただ、その一方で今回の行事を継続していきたい、と考える自分がいる。
たしかに公に近いお金を使ってこういった行事を行うことは考え物である。しかしこのような行事をなくしてしまった場合、彼らが今回のようなことを経験する「場」は生まれるのであろうか。多分、一生の間に経験することは皆無かもしれない。
同様に、昨年5月に行った神戸・大阪の宿泊行事も同じことが言える。どうして彼らがこのような経験ができるのであろうか。きっとこう言う場を設定しなければ、神戸や大阪に行くことはないかもしれない。もちろん家庭に任せると言うのが本来的であろう。しかしすべてを家庭に任せてしまったら、社会全体で支えあうと言う仕組みは成立しない。余暇生活をいかにプロデュースしていくかも施設に託された役目の1つであり、施設の設立趣旨に基づいて、余暇生活のプロデュースを図っていくことも必要かもしれない。
当然ながら、彼らは私たちに比べて社会経験値は低い。自分と同じ26歳の利用者がいても、自分が経験した「26年」と彼らが経験した「26年」の内容は明らかに違う。自分の場合は程よく遊び、そして程よく色んな経験をしているが、彼らにはその経験は皆無である。当然、ホテルでコースを食べたり、どこかに旅行に行ったりすると言うことは、こういった状況設定がなければ、きっと彼らの一生の中には生まれないであろう。
社会経験をするという意味では、「贅沢」と言われるような行事は必要なのかもしれない。
もちろんその経験が彼らの今後の生活で役立つのか否かについてはなんともいえない。もしかしたら、役立つことはないかもしれない。しかし数少ない経験が「思い出の1つ」として残ることはありえる。こういった経験があるから「次は何をしたい」と聞けば、今までの経験から「○○がしたい」と言う希望・願望が生まれだすのであろう。
傍から見れば、今日の行事は必然性が薄い内容。
でも彼らにとってはこの上なく大事な「イベント」の1つである。お金の使い方はもっと考えなければいけないが、彼らの気持ちも汲んでいくことは当然に必要であろう。今日はそんなことを感じた1日でした。
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