自分が変われば、周りが変われば
本日の業務内容
午前、バルクメールの開封作業。
午後、バルクメールの処理作業。
今日は久しぶりに作業のヒトコマから。
うちの施設は知的障害の施設だけど、一言で「知的障害」と言ってもその障害特性は多岐にわたる。知的障害だけの人(うちでは「単純」と呼んでいる)がいれば、自閉傾向をもっていたり、ダウン症だったり、あるいは統合失調症・てんかん発作を併せもっている利用者もいる。だから理解レベルも変わってくるし、パーソナリティも違ってくる。当然ながら、性格も異なる。障害のない人でも異なるのだから、なおさらのことである。
ただし、やっぱり「障害があるがゆえのこと」と言うのもある。
作業時間が終了して後片付けの声かけをしても、自分の机にある作業が終わらないと納得できない利用者がいる。その利用者に対しても「時間になったから、終わり。片づけをして」と声をかけるが、片付けようとしない。まぁ多少は大目に見ることもあるのでそのまま様子を見ていたが、すると今度は他の利用者がその利用者に対して「時間だよ、片付けだよ」と話す。が、「片付けだよ」と言った利用者が、実は片付けをせずにまだ作業を続けようとしている。普通に考えたら、「言ってるお前がやってて、どーなんだよ」と言うことであり、当然注意した。
また言動がかなり粗暴になっている利用者もいたので、注意をした。
だけどどうしてこんなことが起こるのか。
もちろん障害があるから・・・と言うのもあるけど、元を正していけば「職員」に問題があるのかもしれない。
「作業終わり」と言っても職員のやっている仕事は簡単に終わらせられるものではないから続けてやっている。それを見ている利用者は「俺も続けていいんだ」と思って、続けているのかもしれない。また「粗暴な言動」に関しても職員が他の利用者を注意している場面を見て「俺もこうやって言っていいんだ」と思って、職員のマネをしているのかもしれない。
ただ当然ながら「職員」と「利用者」は違う。
たしかに「対等な関係」で接していかなければならないことは事実だし、極端なパターナリズム・父権主義は望ましくないが、一方で「社会生活を営む上で問題がある」からこそ、施設に来ているのである。以前に「支援と指導」でも同じようなことを話しているが、何の問題もなければ施設を利用する必要はないはず。でも現に利用していると言うことは、何らかの問題を持っているからこそ、施設に来ているはず。その問題を解決するために施設が存在しているのであって、施設の役目は当然、その問題の解消にある。実際にそのことは法律でも定められていることである。だから一緒くたに「利用者」と「職員」を同じとすることはできない。「職員がやっているから・・・」と言うことは、決して理由にはならない。
でも一番いいのは、職員がきちんと仕事を終わらせること。
そうすれば間違った考えを植えつけることはなくなる。言動に関しても、同じこと。でも現実にはそれで伝わっていないから、あらゆる方法や手段を使って伝えようとしている。特に自分の場合は「感情」を惜しげもなく使うことにしている。喜んでいる時や嬉しい時は「喜び」を体いっぱいで表現するし、逆に怒っているときは「怒り」を体いっぱいで表現する。言葉だけでなく表情や動きで「今は喜んでいる・褒めている」「今は怒っている」を表現している。言葉で伝わればそれに越したことないが、それで伝わらないから「体で表現=体現」している。職員の気持ちを、ダイレクトに伝えるために。
ただ・・・やっぱり自分はまだまだ甘いです。
もっともっと、考えなくてはいけません・・・自分の言っていることが100%正しいとは思っていません。でも、今の自分の考えでは、この方法が一番伝わるかな、と思って実行しているだけです。まだまだ支援手法については、試行錯誤する毎日です。
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