行き過ぎのテクノロジー?
本日の業務内容
午前、ジャム用飾りの輪ゴムの作成。
午後、利用者余暇活動のため、ボーリングに引率。ボーリング場に到着してプレーをする前に「今月から来年の3月まで(つまり下半期)の余暇活動で、誰が一番成績が良いか、やってみない?1番の人は・・・いいことあるかも?!」とハッパをかけると、何故か異様な盛り上がり。おまけに成績も軒並み良いし、中には4連続ストライクを出す利用者もいた。
「いいこと」と言っても、別に何をするかも言ってない。なのにこれだけ盛り上げられるとは・・・言葉の威力、恐るべし・・・(笑)
今日は大雨。ホントは少し残ろうかなぁ・・・と思っていたのだが、施設長が「電車が止まらないうちに帰って・・・」とのことなので、普通どおりに帰宅。そしてテレビを見ているとこんなものを紹介していた。
その名は「セコムリフト」
そのコンセプトは「要介護者が一人で操作できる」と言うもの。でとりあえず紹介VTRを見ていたけど、なんだか複雑な感じ。
特に「一人で操作」という点について。まぁたしかに一人で操作ができないことはない。
ただし、その前提としては「体が動く」と言うこと。どうやら一人で操作するためには、専用のベスト(スリング)を着た上で、そのベストに付けられたフックにリフトを引っ掛けて動くらしい。でも・・・一人でそのベストを着ることってできるの?だって、何故「リフト」が必要なのかって、大部分は全身性介護の必要な人であるから、移動用のリフトが出ているはず。なのに「一人で操作」するまえに「一人でベストを着る」って、本当に可能なのかな?それにこう言うリフトって多分「寝たきり」の人を想定して作ってあるはず。なのに「一人で操作」って、本当に必要なのかな?「普段の介護の負担軽減に」という意味であれば、これは大きな意味があると思うが、あまりにも「一人でできる」と言うことに固執してしまうのは、如何なものかなぁ・・・と思う。
もちろん「一人でやる」と言うことを否定しているわけではない。一人で物事ができればそれに越したことはないし、むしろ「自立」にむけていいことであると思う。だけど何でもかんでも「一人」と言うことが「自立」を意味するのであろうか?ある程度の支援があっても、それで良いのではないだろうか・・・と思う。
もちろん介護者の負担というのはわかるし、一人で何でもできたら、それはそれでいいことだと思う。でも機械を用意して「一人でどうぞ」って感じで言われても、何か人間味が感じられないなぁ。介護って別に日常の生活を支えることだけが「介護」ではないと思う。「介護」という過程を通して「人間としてのふれあい・心の通じ合い」を図ることが、介護のあり方ではないのだろうか?ふれあいや心の通じ合いは、人間にしかできないものであって、機械にはできない。そういった部分を見失ってしまっては、やはり「生活の質」の向上は果たせないと思うけどなぁ・・・
(参考サイト:SECOMニュースリリース)
« 説明するのも、メディアの役目では? | トップページ | 「受容」と「傾聴」 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント