「高圧的」でない教示
本日の業務内容
午前、公園清掃。
午後、古紙回収。終了後、小学生用学習教材の組み立て及び検品・梱包作業。
今日はちょっと「哲学的」な話。(ぶっちゃけ「哲学」は嫌いだけど・・・)
でもこう言う話をしたら「施設職員」としては失格かなぁ・・・そう思いながら。
ここ数日、利用者処遇に関してのスーパーバイズを受けることがある。端的には「傍から見ると、利用者に対して高圧的に見えるよ」と言うこと。もちろん自分ではそんな意識は持ってないし、もともと地声が大きいから、どうしても利用者の呼び止めの声が「高圧的」に見えるかもしれない。しかしながら、自分がいくら「違う」と言っても周りから「高圧的」と見えているのであれば、それが絶対。だから自分の処遇方法も見直していかなければならない。もちろん、1年経ったという「心理的緊張」の緩和もあるのかもしれないが・・・
とはいえ、場面によっては利用者に対して強く出なければならないこともある。
例えば、「○○してください」と言ってるのにもかかわらず無視をしたり、人の話を聞かないで勝手な行動をとったりすれば、当然ながら教示することになる。ただ教示の方法は、「教え諭す」というよりも「指導」の意味合いが強くなる。簡単にいってしまえば「叱る」ということになるだろう。
前者の「教え諭す」という場合であれば「間違ってしまった」とか「よくわからない」などと言った内容や、いわゆる「過失」的な側面の場合に適用することになるだろう。一方「指導」の場合は反社会的な行為や社会的に見て許容できない内容(物取り・盗み・セクハラ行為など)・いわゆる「故意」的な側面の場合に適用することになるだろう。「指示を無視する」とか「勝手な行動」は、どちらかと言うと「指導」の分類に入るだろう。ましてや「無視」という行為は意図的な部分があり、当然ながらその行為を黙認できるものではない。もしそれを認めてしまったら、自分にとって不都合なことは「無視」することで解決できる、という誤った認識を見過ごすことにもなる。だからそれを正すためにも「強い教示」を行うことになる。
しかし「強い教示」をすれば、そこには当然「教示をする・受ける」の関係が発生し、その関係性は「高圧的」になるだろう。ただ、だからと言って「高圧的ではない方法」がこの場面において有効であると言えるのであろうか、という問題もあるだろう。例えばその行為が初めてのものであれば「教え諭す」ことによって改善する可能性があるだろう。しかしその問題を繰り返し起こしている場合、結果として「教え諭す」という方法が効果を現さなかったということになり、次には今までとは正反対の方法・・・つまり「指導」するという方法に変わるだろう。いわゆる「強化」と「罰」の関係を応用したものである。
ただ・・・言うまでもなく、当然この逆のパターンも考えられる訳である。
さて、こう言う状況の時でも、やっぱり「高圧的」になってはいけないのかなぁ?
もちろん、高圧的であることは今の福祉の流れや考えからは決して正しいことではない。今の時代は「対等な関係」であることが第1にある。しかし明らかに正さなければならないことがあるときは、やはりある程度は強く出る必要があるだろう。1人の人間として社会の中で生きるためには、それなりの社会的スキル等を身につける必要はある。そして社会で生きるためには、当然ながら「障害」を免罪符にすることは許されないし、免罪符にしてはいけない。だからこそ、「だめなものは、ダメ」とはっきりさせなくてはいけない。「対等な関係」である以前に、そのための準備も必要であるはず。
あー、なんかややこしい話にしちゃったなぁ。
ともかく、もっと自分を強く戒めて行動していかないと・・・
この記事へのコメントは終了しました。
コメント